その蜩の塒2

徒然なるままに日暮し、されど物欲は捨てられず、そのホコタテと闘う遊行日記。ある意味めんどくさいブログ。

津軽双花

f:id:pc-input:20190608121707j:plain

 【津軽双花】陸奥国弘前藩津軽信枚(のぶひら)に正室として嫁した石田三成の三女辰姫(大館御前)は、太閤正室北政所の養女であり、のちに正室となった満天姫は家康の養女であったことから、女人の関ヶ原として捉えられています。しかしながら当人同士は争うというよりは、むしろ互いを尊敬していたように思われます。それは秀吉の先の正室高台院と後の正室となった淀殿の関係に似ています。

 そのため家督相続の争いのもとになる辰姫の懐妊も、老中本多正純からの川中島への移封話も乗り越えられたとみていいでしょう。

 【鳳凰記】秀吉は、百姓の生まれゆえ帝への尊崇の念が強く後陽成天皇とも緊密な関係でした。信長も正親町天皇を護っており、私見ですが二人とも幕府という形をとらなかったのは朝廷との関係を重んじたからではなかろうか、と思いました。そして秀吉の側室茶々は遺志を継いで、秀頼とともに帝を徳川から護るべく大坂の陣を仕掛けたという見方です。それも冬の陣では寒さによって家康の命を削ぐことを考えています。

 方広寺大仏殿に掲げる鐘銘にある文字のうち、「国家安康」「君臣豊楽」が、家康の首を切り豊臣を主君として楽しむ、と読めると解釈されたのは偶然でしょうか。

 【孤狼なり】秀吉没後家康が台頭し、側近だった三成は失脚します。関ヶ原の戦いを仕掛けたのは同じく近臣だった使僧安国寺恵瓊(えけい)で、動きを封じられた三成に持ちかけたという見方。

 【鷹、翔ける】本能寺の変は、光秀の家臣斎藤内蔵助によって起こされた、というもの。